Updated:2009.09.27 (03:28:35 JST). | 竜馬を探す | Total Access: 1589. |
決して単なる竜馬ファンではなく、かなり屈折したファンなので、以前はあ まりはしゃぐこともなく、高知に入っても桂浜に寄らずにいた私です。坂本竜 馬に関しては、具体的な事実と感じられるほどの資料は不足しているし、どう も小説というものがどこまで信用すべきかわからなかったからです。この点、 福沢諭吉に関してはいろいろな資料が充実していて、私が心の師と仰ぐに足る 確信を得ているのとはやや事情が異なります。
しかしファンであることは間違いなく、数年前に京都を徹夜で訪ねたり するまでになりました(徹夜になったのは、単に泊まるのが勿体ない気がした だけですが)。
今年になって、竜馬の通った千葉道場の付近を現代の地図上でどこにあたる のか調べたのでその様子をレポートします。
実は1年くらい前まではインターネット上で検索しても見つからなかったの で、その後ずっと探していたのですが、桶町を発見した後にGoogleで探したら、 いくつか近い場所を尋ねたレポートが見つかりました。まずは参考資料として ご紹介します。
とまあ、こういう先人のレポートはあるわけですが、東京にいて、ほとんど 桶町という場所が知られていません。
数年前、1998年頃でしょうか、私の兄が東京を訪れた際、千葉道場 の跡地を探していました。兄はスポーツの観点から司馬遼太郎の描く剣道(千 葉周作)の面白さに惹かれて見つけたようでした。このときは、秋葉原の近く で、お玉ヶ池の千葉道場跡地を捜し出していました。それが自分もときどき通っ ていた秋葉原の近くだと聞いて、俄然、竜馬の足跡が近く感じられ、自分も探 してやろうと思ったというわけです。
もともと歴史や遺跡は嫌いじゃないですし、現在横浜市鶴見区に住んでいて、 生麦事件の跡地を引っ越してすぐに尋ねたりしていたので、私自身、歴史好き であることは間違いありません。竜馬の生活圏がどの辺だったのかは興味があ りました。しかし、どうも司馬遼太郎の小説は、小説だけに、どこからどこま でが本当なのか私には怪しいところがあります(どうしてこう、検証不可能な 形で発表するんでしょうか。論文とかだと、出典や再検証のための手順や手が かりを残しておくのが当然です。司馬遼太郎氏は小説と言う自由な形態が楽だっ た、とか別の場所で書いてはいましたが、再検証できることが科学的にも社会 的にも重要で、歴史的な読み物としては、今後も検証可能性と言うのが求めら れていくのではないでしょうか)。インターネット上の情報でもそういう点を 指摘する人々が大勢いらっしゃいます。「竜馬がゆく」をそのまま信じるほど 馬鹿じゃないので距離を置いていましたが、「竜馬がゆく」によって心情を煽 られたことは間違いないし、お玉が池の千葉道場まで出てきたので、なんかそ れなりに足跡が見つかりそうだ、できるだけそういうところは見てみたいとは 思うようになりました。
それで桶町ですが、1年前はほとんど情報がありませんでした。探し方が悪 かったのもありますが、今回も探してみて、やっぱり探すのは大変なのだとい うことがわかりました。
この記述は見ていましたが、それから東日本橋界隈や神田などを、人に尋 ねながら歩くことは一度や二度ではありませんでした。歩けば見つかるという わけではなさそうだということは身にしみてわかったわけですが、逆にかなり 難しい課題であることもわかりました。
ところが、大学の同級生と飲んでいたとき、ひょんなことから、「僕は京都 に行って坂本竜馬の墓を見てきたけど、ずっと、具体的に探し初めてからも1 年以上ずっと、桶町の場所がわからない」という話になりました。そしたらそ の同級生が、大学図書館の人が江戸時代の地図にやたら詳しいから、今度紹介 するということを言ってくれました。普段は聞き流してしまいそうなことです が、これだけは忘れずに覚えておいて、それからひと月ちょっと経過した今年 (2002年)の1月、遂にその方をご紹介いただきました。
アポ無しで行ったにも関わらず、快く会ってくださったその方は飯澤さんと おっしゃるかたで、実を言うと古い地図の権威でいらっしゃいました。少なく とも大学図書館に地図のコーナーを設けられ、大学でも教鞭をとっていらっしゃ るそうです。
実にタイミングが良く、ちょうど授業で使ってたからと持って帰られた地図 の中に、幕末に近い江戸時代の地図がありました(もちろん江戸時代に出版さ れた本物)。日本橋から神田近辺の地図を3つ広げていただき、まずは自分の 見当に近かった2枚とにらみ合うこと20分。全く桶町らしき字が目に入りませ ん。飯澤さんは「地名索引があったはずだからそれを調べたらどうか」とアド バイスしてくださいました。そうかなと思って残りの1枚の地図を見たらあき らめようとして見始めたら、5分とかからずに桶町を発見できました。先入観 から、日本橋の北側を探してたわけですが、日本橋の南側でした。現実にも探 せなかったわけですが、地図上で捜し出すのも、大変な思い違いによって、苦 労してしまったわけです。
場所は鍛冶橋と日本橋の間、京橋のすぐ北側でした。1年以上にわたって探 し続けた桶町の地名が目の前にあり、しばし興奮のため目が離せないまま、 「あった。ありました、ありました」とつぶやいてしまいました。お仕事の 邪魔をしているような感じで恐縮し始めていたところで見つけることができ、 一種の興奮状態に陥ったことを覚えています。
さらにひと月以上たって、やっと該当する場所を尋ねることが出来ました。 海外出張を挟み、かつ週休1日の生活がずっと続いていて、しかも休日もやる ことがあって、なかなか出かけられなかったのです。2月末、二度目に訪ねて、 やっとその付近だと思えるところにたどり着けました(ついでに、その後転職 までしてしまい、こうして報告できるのは5月の連休になってからでした)。
飯澤さんは、私が尋ねた後、さらに現代の地図との重ね合わせた地図をお送 りくださいました。その地図に従ってやっと尋ねたそこは、東京駅南口の八重 洲ブックセンターの北側でした。この地図を頂けなければ、ここだと確信をもっ てたどり着けなかったのではないかと思われます。
鍛冶橋交差点付近が以前の鍛冶橋で、交差点のたもとにほとんど字の読めな
い立て札が立っています。最初はこの辺を中心に探していたわけですが、実際
にはここから北に向かって、東京駅八重州南口に向かいます。
鍛冶橋交差点付近
鍛冶橋の由来を書いてあると思われる立て札
この立て札は、その後立て替えられて、ちゃんと字が読めるようになったようです(笑)。
http://blogs.dion.ne.jp/yoake/archives/cat_137510-1.htmlなど参照。
以前の桶町は、この鍛冶橋よりも北側にある、東京駅八重州南口から東に向
かったところにあります。要は、東京駅八重州南口のハイウェイバス乗り場の
真向かいの所でした。
八重州ブックセンター
八重州ブックセンター前の二宮金次郎像
東京駅八重洲南口 住友信託銀行付近
東京駅八重洲南口 ハイウェイバスのりば
現在住友信託銀行があるブロックまで来たら、そこが以前の桶町の入口です。 しかし、この住友信託銀行の方に聞いても、昔の桶町がどこだったのか、全く 知らないとのこと(あとで分かったのですが、このビルまで来てたら、もうほ とんど桶町に来ています)。数ヵ月前に、八重州ブックセンターで司馬遼太郎 キャンペーンが行われていたことまで知ってらっしゃる方だったのに、桶町が どこか全くご存知ないと言うことで、いかに桶町が探しにくいか、思い知らさ れました(しかし、飛び込みで変なことを聞いたのに、快く受け答えして頂き、 ありがとうございました)。
余談だが(笑)、高校のときの同級生が住友信託銀行に勤めていることがその後判明し、 八重洲南口付近のことを話したら、『あ、その頃(2002年頃)、俺はそこに勤務していた』ということでした。 世間は狭いです。
桶町の区画は、地図によれば、おそらく、現在のドコモショップと住友信託
銀行の間の路地を入っていくところから、中央通りに出るところまでです。現
在の城東小学校は路地をはさんで北側の隣町に当たる、以前の南槙町のようで
す。
中央区立 城東小学校付近
城東小学校を過ぎて東に向かっていくと、「神戸らんぷ亭」前の十字路を過
ぎたところあたりに、二宮金次郎の石像があります。この通りは「柳通り」と
呼ばれる車道です。ここまできたら、まさに桶町の真ん中に来ていると思って
良いでしょう。しかし、八重州ブックセンター前と言い、この辺の人は二宮金
次郎が好きなのでしょうね。
二宮金次郎の石像
柳通り
二宮金次郎を右に見ながら、更にそのまま昭和通り側に進むと、飲み屋さん
や寿司屋さんが両側にあり、そのなかに「伊勢廣」(いせひろ?)という焼き鳥
屋さんの看板が目に付きます。私が訪ねたとき、周りに人がいるようなお店は
ここしかなかったので、お邪魔だとは思いつつ、このあたりが桶町であること
を確認させて頂くことにしました。
やき鳥 伊勢廣さん (ここを含む一角が桶町二丁目)
数人の若い方々が忙しそうにしていたのですが、その中の一人に、「すみま せん、このあたりが江戸時代に桶町と呼ばれていたかどうか、ご存知ありませ んか? 坂本竜馬の通っていた道場がこの辺にあったはずだと思い、飲み会の話 のネタにも使えると思うのですが、何か少しでもご存知だったら教えて頂けな いでしょうか?」とたずねたところ、「わかりませんが、古いことを知ってい る人に聞いてみましょう」と、伊勢廣の向かい側の店(同じ伊勢廣かも知れま せん)の方を呼んでくださいました。けげんそうな顔をして出て来られた、50 歳前後と思しき方にも同様の質問をしたところ、「そうですね、この辺が桶町 (おけちょう)と呼ばれていたところです。」と親切に教えてくださいました。
「オケマチじゃなくて、オケチョウなんですか」「オケチョウです」といっ た会話の後、「やはり、この辺がそうですか。実は、坂本竜馬の通っていたと 言われる千葉道場がこの近辺にあったはずですが、何かご存知ありませんか?」 と尋ねたところ、「いやあ、知らないねえ。昔はこの辺で桶(オケ)を作ってい たから桶町(オケチョウ)と呼ばれてたらしいけど、道場があったというのは 聞いたことがないです。」とのことでした。
「地図で見ると、この1、2区画のことですから、それほど広いところではな いですよね。(伊勢廣さんの目の前、古い地図では"桶町東会所"付近に)"西会 事務所"という、似たような目的に使われる寄り合いの場所もあったりして、 この辺に桶町、すなわち竜馬の通った道場があったことはほぼ間違いないと思 うんですが、まったくそういう話はないでしょうか?」
と食い下がったのですが、「うーん、全く聞いたことがない」とのことでした。仕込み途中の貴重な時間をそれ以上邪魔するわけにもいかず、お礼を申し上 げて、この日の取材は終了しました。この日はこれだけの情報でしたが、実際 に地図上ではごく狭い区画のみが桶町と呼ばれており、実際に現在ではこの辺 であるというのが特定できたことの成果を得ただけでも満足でした。ただ、現 在は影も形もなくなっているというのが本当のところで、これ以上の道場跡地 の特定は、さらなる証言や資料に当たらないと難しいところです。
ちなみに、この『伊勢廣』さんは、この時訪問した直後くらいから気をつけていたところ、
なんと、日本でも老舗の焼き鳥専門店で、超有名店でした。
大正10年創業で、 あの小津安二郎監督も訪れていたということで、その後何度か私も、龍馬からは離れて、
焼き鳥を食べに行きました。竜馬を探して桶町を巡った時には、訪れておいて損はないと思います。
知らずにのこのこ尋ねていったのに御丁寧に教えていただいて、ありがとうございました。 本当にその節は失礼いたしました。
いずれにせよ、江戸時代の桶町の場所としては、ほぼ特定できました。この ブロックにはいくつか料亭やビルがあり、実際にどの地点に道場があったのか までは特定できていませんが、かなり肉薄していることは間違いありません。
それもこれも、江戸時代の地図に偶然、接することができたことが、事の発 端でした。直接、江戸時代の地図を見せて頂いた飯澤様には、お礼の申し上げ ようもございません。確実に結果を出してからと思って、お礼を申し上げるの が遅れてしまったことも、更に申し訳がございません。この場をお借りして、 飯澤様にお礼を申し上げます。ありがとうございました。
もちろん、飯澤様に引き合わせてくださったOさん、お店で親切に教えてく ださった皆さんも、ありがとうございました。皆さんのおかげで、また一歩、 竜馬の実像に迫ることができました。
長崎に帰省したとき、やはり焼き鳥屋さんで、長崎の竜馬像を建てる活動の中心となり、 現在は長崎龍馬会の溜まり場になっている 「風雲児 焼きとり 竜馬」にて、 ご主人から大浦のお慶さん(私の同級生の大浦圭子さん本人は、お慶さんとは何の関係もないといってました) や小曾根氏というのは実在の人物であることを聞きました。特に龍馬と焼き鳥に関係があった 訳ではないでしょうけれども、そう言えば、暗殺される前には峰吉に軍鶏を買いに行かせたのでしたね。 焼き鳥はともかく、少なくとも軍鶏鍋は好きだったらしいです。 両国の軍鶏鍋やさんに通っていたという噂がありますね。またその辺も想像しつつ、 龍馬の足跡をたどってみようと思います。
このページは、『桶町』でGoogle検索すると上位に来ることを最近発見しました(2009年)。 来年の『龍馬伝』では、同じ長崎出身の福山雅治氏や、 楽器を練習するきっかけを作ってくれた映画『スウィングガールズ』でも活躍し、 千葉佐那役も演じる貫地谷しほりちゃんがこの辺を訪れてくれると楽しいですね。 いずれにせよ、『龍馬伝』ではご両人を特に応援しておりますので、頑張ってくださいね。
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